こんにちは、きなこいぬです。
さて、早速ですが昨日に引き続き、藤井風さんの『へでもねーよ』について考察していきましょう。
サビの歌詞はこうなっています。
あんたの軽ぃキック へでもねーよ
あんたの軽ぃパンチ へでもねーよ
あんたの軽ぃブロウ へでもねーよ
へでもねーよ バカじゃねーよ
あんたの軽ぃディス へでもねーよ
あんたの軽ぃヘイト へでもねーよ
あんたの軽ぃマウント へでもねーよ
へでもねーよ それでえーの?
(藤井風 『へでもねーよ』 より)
実は、サビの歌詞は1番と2番で全く同じです。
しかし、その歌詞の背景にある感情は全くの別物になっていると思います。
私がそう考える根拠は、『へでもねーよ』のミュージックビデオにあります。
ミュージックビデオを観てみると、明らかに『子連れ狼』がモチーフになっています。
1番のサビ。
ミュージックビデオの映像は、様々な格好をした藤井さんが目まぐるしく入れ替わっていく構成になっています。
眼鏡をかけていたり、革ジャンのようなものを着ていたり・・・
これは、何を意味しているのでしょう?
あくまで私が思うに、ですが、これは「へでもねーよ」と口では言いつつも、本当のところは精神的にかなりグラついている様子を表しているのではないでしょうか。
どんな困難も「へでもねーよ」という強い気持ちになるときもあるけれど、「もう限界」という弱い気持ちに落ち込むときもある。
その、両極の間を行ったり来たりしている。
スタンスが定まらない自分の精神状態が、様々な格好をした本人が目まぐるしく変わっていく姿に投影されているのではないでしょうか。
一方、2番のサビの映像を観てみましょう。
ボクサーのような格好をした藤井さんが、ボコボコに打ちのめされています。
ボコボコに打ちのめされているのですが、相手に対して「かかってこいよ」というような挑発をしている様子も見られます。
1番のサビとは違って、様々な格好に目まぐるしく変わっていく藤井さんはもう出て来ません。
これは、何を意味しているのでしょう?
ボコボコに打ちのめされてはいますが、一貫してボクサーの姿をした単一の人格としての藤井さんが、全ての攻撃を受け止めています。
これは、「あんた」の攻撃を真正面から受け止めているので、当然の結果として自分は傷付いているのだけれど、それでも、その攻撃から逃げずに立ち向かえるようになったことを表しているのではないでしょうか。
肉体的には傷付いていたとしても、精神的には全く効いていない印象さえ受けます。
しかし、そんな藤井さんも、相手の度重なる攻撃を受け続けてとうとうダウンしてしまいます。
そのとき脳裏によぎったのは、大五郎(?)の姿。
瞬間、藤井さんは立ち上がり、そして戦い続けます。
なぜ、大五郎(?)の姿が藤井さんを奮い立たせたのか?
大五郎(?)は、おそらく「自分が愛する存在」の象徴なのではないでしょうか。
そして、激しく打ちのめされても、困難に負けず、立ち上がり続けられるのは、肚の底から「へでもねーよ」と思える「覚悟」が定まったから。
そして、その覚悟の境地に至らせたのは、自分が愛するものの存在だったのだと思います。
月並みな表現ではありますが、「人は誰かのために戦うとき強くなれる」ということなのでしょう。
こういうことって、能書きとして言われても「そんなの綺麗事だよ」と感じてしまって、響きづらかったりするものです。
しかし、こうして「物語」の形で息を吹き込まれると、途端に心へ響いてくるものを感じますね。
私も、「へでもねーよ」の精神で自分の大切な人たちを守ることができる強い人間でありたいと改めて感じました。
そのためには、「自分が」きつい、「自分が」つらい、そういう「自分が」から離れること。
そして、「人のため」という気持ちを高めていくことが必要なのだと思いました。
私にとって、藤井風さんの『へでもねーよ』は、そんなことを気づかせてくれた名曲でした!
今日も当ブログをご覧いただき、ありがとうございました。
◇きなこいぬ◇