「怠惰を求めて勤勉に行き着く」矛盾の中にこそ真実がある房州さんの名言。

怠惰を求めて勤勉に行き着く

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☆このブログで伝えたいこと

 

面倒くさがりの人こそ勤勉であるべき

 

・なぜなら、勤勉さがいちばん面倒くさい事態から自分を遠ざけてくれるから

 

こんにちは、きなこいぬです。

 

今日は、さいふうめいさん・星野泰視さんの漫画 『哲也−雀聖と呼ばれた男−』3巻 より、あるシーンをご紹介します。


 

怠惰を求めて勤勉に行き着く

 

「博奕打ちってのは楽して大金を稼ごうって人種だろ でもそのわりにはやけに勤勉じゃない」

怠惰を求めて勤勉に行き着くか・・・・カカカ・・・・それもそうだ」

 

(さいふうめい・星野泰視 『哲也−雀聖と呼ばれた男−』3巻 より)

 

怠惰を求めて勤勉に行き着く

 

私はこの「怠惰を求めて勤勉に行き着く」という房州さんの言葉が大好きなのです。

 

でも、「怠惰」に過ごしたいはずなのに「勤勉」になってしまうなんて、おかしいと思いませんか?

普通は逆ですよね。

「怠惰」に過ごしているから「勤勉」とは無縁の生活を送る。

あるいは、「勤勉」じゃないから「怠惰」な生活振りになってしまう。

これが自然だと思いませんか。

 

一見矛盾するとも思われる、「怠惰を求めて勤勉に行き着く」という言葉の意味。

それを探っていきましょう。

 

「怠惰」に生きるために「勤勉」という対価を支払う

勤勉

房州さんにとっての「怠惰」、それは自堕落に生きるということではありません。

勝負に勝つことで、自分の力を誇示し、そして、生きる糧を獲得すること。

つまり、自分の存在意義を実感できるということが、房州さんにとって必要な心地良さであり、その心地良さに浸れることが彼にとっての「怠惰」なのだと私は思います。

その「怠惰」を支えているのは「勝負に勝つ」という一点なのです。

そして、勝負に勝つためには、自己を鍛錬すること、すなわち「勤勉」さが必要となるのです。

このことが、「怠惰を求めて勤勉に行き着く」という意味だと私は思います。

 

私にとって、房州さんのこの言葉は自分の生き様そのものと言っても過言ではありません。

なぜなら、私は何か特別な才能を持っていたり、天才的なひらめきが降りて来たり、頭の回転がめちゃくちゃ速かったりという人間ではないから。

凡人オブ凡人そのものだからです。

そんな凡人の私が、人から信頼されるために最も大切だと考えているのが「準備」です。

物事の9割5分は「準備」で決まるというのが私の持論です。

例えば、何かトラブルが発生したとき、とっさに最善の判断をすることなど私にはできません。

だから、事前に「どのような事態が起きうるか」「起きたときにどう対応するか」を様々な角度から想定し、あらゆる「準備」をしておくのです。

その準備は確かにものすごく大変なのですが、その努力をしておくことで想定外の事態をつぶすことができ、いざというときに慌てずに済むので、私にとっては安い出費なのです。

言わば、本番で楽するために「準備」という対価を支払う

こういうことです。

 

面倒くさがりこそ勤勉であるべき

面倒くさがり

ここで、小池一夫さんが書かれた 『人生の結論』 という本の一節をご紹介させていただきます。

 

丁寧に暮らしたほうがとても楽で、雑に暮らしたほうがとてもしんどいものなのですが、逆に思っている人の方が多いというのが僕の実感です。

「雑」に生きる方がしんどいものなのです。

雑な生活、雑な人間関係、雑な仕事。

精神的にも、肉体的にも、とても疲れます。

結局は「丁寧」がいちばん楽なのです。

 

(小池一夫 『人生の結論』より)

 

ここで小池さんがおっしゃっていることは、房州さんの「怠惰を求めて勤勉に行き着く」に相通づるものがあると思います。

「楽」をするためには結局のところ「丁寧」に生活するのがいちばんである、ということですね。

 

一見矛盾しているように見えますが、「面倒くさがり屋」の人こそ勤勉であるべきだと思います。

なぜなら、勤勉さが、結局いちばん面倒くさい事態から自分を遠ざけてくれるからです。

 

本日も当ブログをご覧いただき、ありがとうございました。

◇きなこいぬ◇

 

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