☆このブログで伝えたいこと
・目的の入れ子構造に気付くと物事の本質に迫ることができる
・目的は相対化すると手段に変化する
・上位目的を見失わないようにしよう
こんにちは、きなこいぬです。
最近、すっかり漫画ブログみたいになってきましたが。
私は「三度の飯より漫画好き」というほどの漫画好きです。
漫画って、気軽に読むこともできるし、深読みすることもできる。
面白いだけじゃなくて、気付きや学びがある。
漫画という素晴らしい文化があるこの世界に生まれて来れたことを、今日も感謝しております。
というわけで、今日は葦原大介さんの作品『ワールドトリガー』1巻より、空閑遊真(くがゆうま)のセリフをご紹介します!
自分に処分が下るのを承知でルール違反をしたオサム
ルール違反なのはオサムだって知ってたわけじゃん
戦ってもほめられるどころか むしろ怒られるのをわかってて
それでも助けに行ったんだから
逆にエラいんじゃないの?
なんかおまえオサムに対抗心燃やしているみたいだけど
おまえとオサムじゃ勝負になんないよ
(葦原大介 『ワールドトリガー』1巻 より)
ここで空閑が話している女性は木虎藍(きとらあい)といって、詳細はざっくり省きますが、侵略者から街を守るために組織された防衛期間「ボーダー」に所属するA級隊員です。
ちなみに、隊員の階級はC級からS級まであって、S級というのはこれまた詳細は省きますが「ブラックトリガー」という反則級の武器を使える者だけが該当する特例的存在であり、階級の概念からは外れていると言っていいでしょう。
つまり、A級隊員は組織の構成員としては実質的に最上位に位置する精鋭部隊なのです。
そして、話の中に出てくる「オサム」というのは、物語の主人公である三雲修(みくもおさむ)のことで、彼はボーダーのC級隊員、つまり最下級隊員です。
C級隊員は正規隊員ですらなく、身分としては訓練生扱いです。
木虎の言い分としては、オサムの行動は「ルール違反」であると厳しく追求します。
彼女は他の隊員の模範たるべきA級隊員ですから、そうすべき立場にあるとも言えます。
一方、オサムは、C級隊員である自分が訓練以外でトリガー(ボーダー隊員が使う特殊な武器のことです)を使って戦うことはルール違反であることを当然知っていました。
それでも、クラスメイト達を助けるために、自分に処分が下ることも覚悟の上で戦ったわけです。
目的の入れ子構造
この二人、どちらの立場も私には理解できるのですが、皆様はいかがでしょうか?
オサムは結果的に人の命を救っているわけですから、ルール云々よりもそっちの方が大事だろ!と心情的には言いたくなります。
しかし、結果さえ出せばルール無視で何をしてもいいのかというと、それもまた問題あるなあ と思うわけです。
そんなことでは組織を秩序立てて運営していくことはできないですからね。
私が思うに、何らかの「目的」があるからこそ、はじめて「ルール」が存在します。
何も目的がないのにルールだけ設けるということはあり得ないですからね。
組織にルールを設ける場合であれば、組織を構成する一人ひとりの人間を統制(コントロール)することが、ルールの目的であると言えます。
さらに言えば、ではなぜ構成員を統制したいのかというと、「構成員を統制したいから」ではないですよね。
様々あるでしょうが、究極的には、組織として実現したい何らかの価値があるからですね。
こう考えると、ルールをつくることには、①構成員を統制する という目的の上に、さらに上位目的である②価値を実現する という目的があるわけですね。
組織として目指す価値を実現することが「目的」で、構成員を統制するのはそのための「手段」であるとも表現できます。
我々の社会には、より大きな「目的」と小さな「目的」が、こういう入れ子のような構造で何層にも重なり合っていることが多い。
A級隊員とC級隊員、すごいのはどっちだ?
若くしてA級隊員にまで上り詰めている木虎は、紛れもなくトップエリートであり、その実力は折り紙付きです。
一方、C級隊員のオサム。
クラスメイト達を助けるため敵に立ち向かい、見事目的を果たしましたが、空閑のサポートが無ければ彼自身が生き残ることは難しかったでしょう。
彼の実力は極めて凡庸なものです。
A級隊員の木虎と、C級隊員のオサム。
隊員としての力を比較するならば、その実力差は歴然です。
それではなぜ、空閑は木虎のことを「おまえとオサムじゃ勝負になんないよ」と評したのでしょうか。
それは、木虎よりもオサムの方が「飛び抜けて優れている」という意味ではもちろんありません。
ここで言っている「勝負になんないよ」というのは、木虎じゃオサムに勝つことはできないということではなくて、「勝負として成立しない」という意味なのだと思います。
なぜなら、二人は見ているものが全く違うからです。
では、どう違うのか・・・それはぜひ、実際に作品を読んで確かめてみてください。
二人のやり取りの顛末は、『ワールドトリガー』2巻でお読みいただけますので、どうぞ。
「人間が人間たるゆえん」とは何か
ちなみに、私はこの空閑と木虎のやり取りの顛末を読んだとき、中島敦の『山月記』が頭をよぎりましたね〜。
頭脳明晰、博覧強記、抜きん出た才能を持っていた李徴(りちょう)。
しかし、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」から、人との関わりを避け、一人自分のうちに閉じこもってしまった。
そして、高名な詩人を目指していたはずの彼は、いつしか「虎」になってしまっていたのです。
世のため人のために生かすことができたであろう素晴らしい才能に恵まれながら、己のことしか考えてこなかった李徴。
自分の力を、少しでも人のために使おうという気持ちを持てていたならば、彼は獣に成り果てることはなかったのでしょう。
「人間が人間たるゆえんとは何か」ということを、改めて考えさせられますね。
本日も当ブログをご覧いただき、ありがとうございました。
◇きなこいぬ◇